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【まいにちコラム】散逸物語と架空キャラクターの寿命

散逸物語というものがある。

登場人物やストーリー、舞台が一切不明なものを指す。他の文学作品内の言及でタイトルだけが残ったが、経年による紛失、戦乱、災害等が原因で物語の原本が無くなってしまい、謎の存在として歴史に名を残すことになる。

その最もたる例の一つが、菅原孝標女作「更級日記」のこの一節。

「何をか奉らむ。まめまめしき物はまさなかりかむ。ゆかしくしたまふなる物を奉らむ。」とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。

 このうち黒太線の4作品がここでいう散逸物語にあたる。どのような物語であったのか、どのような風景や人間が描かれていたのか、いつ散逸してしまったのか、いずれも明らかにできなかった。しかし言えることはこれらは当時なかなかの人気作品で有り、実際たいへん熱心な文学少女だった作者をワクワクさせたモノだった、ということだけである。

文学内の登場人物は読者に作品を読まれ、受け継がれていき、そして読者のこころの中でのみ生き続ける。たとえ作中で登場人物が命を落とそうとも関係なく、読者に愛着を持たれている限り存在をこの世に刻み付けることができる。これは作中のある時点で死んでもその前のページを見れば登場人物が生きているのを見られるように、巻き戻しが可能と言う本の特性を示しているともいえる。

また映像作品とは違うところは、本は登場人物や風景のイメージを読者に想像させるため、よりこころに残りやすいという点にある。本の世界の中の存在は、読者そのものに大きく依存する。

 

では物語の人物が死ぬときはいつか。それは読者が離れていき、読者の心の中から追い出され「忘れ去られて」しまう瞬間だろう。ひとりの読者が読み飽き、その本を放ってしまえば物語の寿命がひとつすり減らされる。やがて時代に合わなくなって全ての読者に飽きられ忘れられた時物語は、名も知れぬ、果ては存在すら知られぬ紙の塊となり果てる。丁度それは人間が死ぬとき魂が抜け、タンパク質とカルシウムの塊である遺体だけが残るに等しい。

物語が死んだとき、作中内で生き生きと描かれた登場人物、華やかに織りなされた宮廷の風景、想いうごめく魑魅魍魎の世界は同時に幕を閉じる。つまりそれが架空キャラクターの寿命である。

 

しかし面白くかつ恐ろしいのが、人間と異なり、物語の寿命は非常に短命なものがあれば「源氏物語」のように1000年も健在であるものもあり、極めて幅が広いことにある。ある人間の死後も周りの人の心の中で生き続けることを「象徴的不死性」と言ったと思うが、まさに後者の例は本当の不死性を獲得したことになる。

が、それは希で、ほとんどは露の如く短命に消え去ってしまったことだろう。先ほど挙げた「とほぎみ・せり河・しらら・あさうづ」は数十年は永らえたから、もしや当時は中々の人気作品で、読者の寵愛を大いに受けたのかもしれない。しかしそれはあくまで一時の流行で長く続かず、寵愛は時代と共に冷め、誰も見向きもしなくなったときにふと消え去ってしまった。「おごれる者は久しからず、ただ春の夢の如」く、何とも儚く無常な世界である。

 

さてこれを現代的視点で見るとどうだろう。今は源氏の頃と比べようがないほど多くの文学作品で溢れかえっている。小説形式に留まらず、ゲーム、アニメ、マンガ、映画、ドラマ、筆舌に尽くしがたい程の無数の作品が今日も生まれ、姿を消している。

今日特筆すべきことは、それら文学作品の寿命が極めて短いことにある。ほとんどは最初から見向かれもしないまま一年足らず、いや半年足らずで儚く消え去り、10年持てば大成功、20年持てば記録的ヒット、50年持てば歴史の教科書レベル、と言った具合である。ただこれはゲーム、マンガ、ドラマなどを全て含めているからかなり曖昧な基準なのだが。

この現代の寿命の短さを端的に表すなら、ソーシャルゲームが最適ではないかと思う。その存在が認められてからまだ数年だから、その分寿命が早い。やはり多くが一年足らずで消えてしまっている。ソーシャルゲーム業界の歴史に名を残し続ける「パズドラ」も確か5年前にスタートしたからまだ歴史が浅い。

儚く消えたソーシャルゲームの絵柄を見て、常に思うことがある。こんなに綺麗に描かれ生命を受けた女の子たちが、次々に濫造されては見向かれもされずスクラップにされ、散逸物語どころかタイトルすら覚えてもらえない、その儚さ。そして死後、名もなき存在として電子の海に永遠に泳がされるその恐ろしさ。ゲームの多産多死を見ると、これらが常に思い返される。妙に背筋がゾッとする思いをする。

散逸物語という存在は、その儚さからある種の美を感じることができる。所謂滅びの美であろう。同時に内容が「不明」であるところから何か恐ろしいものを感じる。不明という言葉は人を妙に怖がらせる。よく分からないが、不明にされたことへの登場人物の怨念を感じるからかもしれない。

ところが濫造されたソーシャルゲームにはその美がない。つまり滅んだ時の恐ろしさだけが残ってしまっていることになる。そこには大量に生命を受け大量にスクラップにされて死んでいった女の子たちの怨念があるように思えてならない。そして彼女らの怨念は電子の海を人魂の如く彷徨っている―全く怖い話である。

 

最後に、ゲーム全体のことを思う。TVゲームはできて35年の世界であるからこれまた多産多死の世界であるが、一方でこの中からこの先100年、1000年も生き続ける作品があるのでは、とほんの少し期待してる面もある。

マリオかな?ドラクエかな?と見当をつけてみるが、ゲームはソフトは劣化しやすいし、ハードが進化すると互換性の問題でプレイできなくなる。いずれも源氏物語のような永遠の命を獲得することができずに、結局は「散逸物語」としてタイトルだけが歴史に残るのかな、と思う。そしてそこには、栄華を極めても忘れ去られる「儚さ」と、不明にされたことへの登場人物の怨念が込められたような「恐ろしさ」が孕まれているような気がする。