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PENTAX K-S2を振り回す休日記

【まいにちコラム】女言葉への違和感

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 小説をすらすら読むのを阻むものは何か。例えば西村京太郎ならあの句点の乱用。

「私は、そこの、テーブルにある、黒い、鉛筆を取って、メモ書きをした。」内容がライトな分さっさと読んでやろうと思ったらこれだった。目の流れがいちいち句点で止まってしまい読解のテンポが悪くなってしまう。

糞ッいまいましい、そう思うとそのまま本棚の奥に放り投げてしまった。ブックオフジャケ買いしてちょっと後悔したのを覚えている。

それはともかく、同じサスペンスでも松本清張ならクオリティは間違いないはず。「砂の器」は面白かったし、「隠花平原」も中断を挟みながら読み続けている。が、これも違和感を感じさせるものがある。若い女性の「女言葉」だ。

「兄さん、疲れたような顔をしているわ」

「そうか」

「お仕事がお忙しいの?」

「まあね」

「でも、今日は早かったんじゃないの?」

妻が横から言った。

「年だな、疲れたよ」

「気をつけないといけませんわ」

松本清張砂の器(下)」P23、新潮文庫)

勿論現代でも許容できる表現はある。上で言えば「今日は早かったんじゃないの?」の「の」が当たる。が、それ以外は果たしてどうか。

強い違和感を覚えるのが「~わ」。私の周囲の女性(ほぼ0に等しい)をサンプルにする限り、女言葉として使っている人はついに見かけなかった。「~わね」は僅かにいるかもしれないが。

それに「お仕事がお忙しいの?」にも違和感。親しい人物相手、今回は妹から主人公に、わざわざ敬語である。これは女の古い慣習の名残であるが、このような「女は男の3歩後ろを歩く」ような男女関係の死滅した現代では死語と化した。

 いずれも女言葉は男女の封建時代の象徴ともいえるような古風な印象を与える。なぜ消えてしまったのか、いつ無くなったのかは定かでない。1970年代のフェミニズム運動が発端かと言うと日本の場合、そこまで大げさな話ではない気がする。ギャル文化隆盛の時代にはもう無いから少なくともそれ以前であるが、果たして。バブル時代あたりか?

ジェンダー云々は社会学では避けては通れない道であり、そうするとどうしても女言葉の封建的なニオイに敏感にならざるを得ない。女言葉の行方についてちょっと調べたい気もする。

そこで周りの女性からサンプルを採集して、彼女らが使う言葉遣いにみられる女言葉のようなものをひたすら拾い上げる。そんなことをやってみたい。具体的には拾い上げたデータ(「~わ」「~よ」「~ね」など)について違和感があるかどうか確かめ、違和感の有無でタイポロジーする。そして違和感ある方の女言葉の行方を追ってみる。完璧だろう、と画面前でどや顔をしてみる。

しかしこの研究には2つの欠点がある。一つ目は判断が自身のソムリエ的なものに頼るため学術性に欠けること。しかしこれは論文に載せないし、個人のきまぐれでやるからいい。が、もう一つは前述したとおり、哀しいかな、そもそもサンプルになる女性が周りにほぼ存在しないこと。半生ほとんど男に囲まれて育った人間の宿命である。残念ながら、この現実を受け入れるほかあるまい。かくして我が壮大な実験はわずか数行で儚く頓挫してしまったのである。